A4の原稿用紙

好きなコンテンツに関して好き勝手書き散らしている日記。

推し活への熱が落ち着いたオタクの話

「恋と推しには落ちるもの」という言葉を最初に読んだのは多分いつだかにかなりバスった記憶がある記事*1で、それ以来私の推し観は大体ここにある。

ハマろうと思ってハマれるならあんまり苦労はしなくて、何かコンテンツを見た/読んだ/プレイした時、ただ「みた」だけではなく「考えてしまった」時に人は推しを持つのだ。

例えば、物語を読んだ時に「もしこの時こうなってたら幸せになれたんじゃ……クソ……俺が幸せにしてやる……」と原稿マンションを建て始めたり、キャラクターに対して「マジでかわいい/かっこいい、彼氏/彼女に欲しい」「パシられたけどいつものタバコわかんなくて帰ってきて殴られたい」「この子の5年後がみたい」とか、「ファン」を持つ職業の人に対して「その考えで私たちに接してくれるのありがたい」「こういう風に生きたい」「この人は私をわかってくれる」「応援したい」と思ったり、あるいは「この人の外見に近づきたい」「この人のブロマイドが欲しい」と思ったり。

アニメであれ漫画であれゲームであれ、アイドルであれ俳優であれアーティストであれストリーマーであれ、必ず提供される「物語」(ここでは外見や考えのようなカタログスペック的なものも含む)というのがあって、その物語に対して「そこにあるもの」以上の能動的な感情を持った時、人はそれを推しと呼ぶのである。

なおここまですべて個人的な持論である。

狂いてぇ、と最近思う。

私に初めて「推し」という存在ができた5年ぐらい前、傍目から見ても「いやすごい勢いで滑り落ちたよね」と言われるぐらい、その推しは私の生活を変えた。

元々本とゲームのオタクであったが、「特定のキャラクターを推す」ような好きになり方は全くしない人間だった。友達と昨日のドラマの話をして、「え、誰好きなの!?」と言われて困惑していた。家には本の形をしたものが増えていって、「グッズ」なるものは全然なかった。休日は基本的に家にいてゲームと本を読み、外見を良くすることにはとんと興味が出なかった。

そのオタクが、推しの顔が印刷されたグッズを買い、機会があれば都会を練り歩いてグッズを探しに行くようになった。痛バを作ってライブに行った。ライブに行くなら「晴れの日の自分」が欲しいと思って、2年ぶりにメイク道具を買いに行った。

その推しは自分が知る前から活動していて、調べれば調べるほど、知らない推しがどんどん出てくる幸せ。貧弱な大学生にできるバイトは接客業の系統で、人と接するのに苦手意識のある人間には全く向いていなかったが、「これも推しのため、グッズのため、円盤のため、ライブのため」と思えば足が動いた。別ジャンルでオタクをやっている友人(その時にはあまり熱を上げている推しがいなかった)に「めちゃめちゃ楽しそうで羨ましい」と言われたし、事実、推しの新しい情報が出るたびに喜び、推しを推すためにする努力は楽しかった。

 

それから5年が経って、その推しは今でも推しなのには変わりない。でも、あの時のような爆発的なエネルギーでは推してないな、とは思う。

これは私側の環境が変化したのも大きく関わっていて、何せ都会に気軽に出れない場所に引っ越し、生計の建て方が変わり、隙間時間と呼べるものがほぼなくなって、おまけに今現在通販をあんまり気軽に使えない状況にいる。一緒にオタクをしていた友達とは気軽に会えなくなり、持っていたグッズともしばらく遠距離恋愛をしている。先行きはしばらくまだ不透明で、この先私がどれぐらい趣味にコストをかけられるのかすらわからない。

推しに関するものが一気に減った生活を半年近くやって、ふと、推しを前みたいに推すことは出来ないかもな、と思った。例えるならば、今まではライブの最前取る!と目当ての5つ前ぐらいから張ってたけど、今はまぁ、中盤〜後方ぐらいでゆったり聞ければ、に変化した感じだ。新しいビジュが出ればグッズが欲しいと思うし、イベントがあったら予定の調整を考えるけれど、どれもこれも「何としても」という情熱は薄いと感じる。イベント事はどうしてもたくさんの他人が目に入るし、「隙間時間」が消えたのもあってゲームの「期間限定」についていくのがしんどくなってきた。それはそれで、その時の自分に合った推し方をすればいいんじゃない、と頭では思うけど、一方で得体の知れない怖さがある。

今までのような情熱を持てないままで、私はちゃんと生きていけるのだろうか?


推しの存在ってのは、大抵は色々なものの強い原動力になるものではある。そして私は今、これまであった日々を生きる強い理由が弱くなって、(自分比)ふわふわした理由で生きていかねばならなくなった。休日にあれがしたい、と思うことあれど、それは前のようにウキウキで楽しみで前日にクローゼットひっくり返して服を決めるようなものではない。推しについて考えて行動している時間は、現実のあれやそれやが思考に入ってこない時間でもあって、熱の落ち着きと生活の変化により今はそういう時間がめっきり減った。だからもう一度、ああいう好きなものだけを一直線に見ていられる時間が欲しい、と思う。

一方で、元に戻るだけなのかもしれない、とも思う。元々1人のキャラクターや人間、あるいは物語にすらも強く思い入れる人間ではなかった。ある意味ではこれまでの5年間がレアなのであって、そうでなかった人生の方が長いのである。しかし、私は推しに情熱を注ぐ日々を知ってしまっていて、それに比べたら今の体の重いことこの上ない。外の世界を知ってしまったからこそ今までの自由が自由でなくなるやつ、あるよな。深窓の令嬢などではなく、ただのそこら辺にいる一般オタクだからドラマチックでもなんでもないのが残念だが。

ここまで色々書きはしたけど、そのうち通販も気兼ねなく使えるようになり、グッズたちとも再び同棲を始めるわけで、そしたらまたあの時の情熱が戻ってくる、とかそういうオチだってありえる。今の状況はいわば仮宿としてスーツケース一つでホテルに泊まっているようなものだ。「とりあえず生活をしている」のであって「(趣味などをひっくるめて)人生をやる」感じの状況ではないのは確かである。

それでも私がこの記事を書き始めたのは、私というオタクの歴史において「初めて推しが出来、精力的に推し活をして、その情熱が落ち着いた」という一連の出来事は、さながら一つの時代の始まりから終わりのようなもので、私にとってすごく大きなピリオドだからだ。頭の中にある物語を、思考を、感情を文章にし始めるというのは私のオタク史ではいつものことで、そういう意味では私は15年変わらずオタクのままである。

そして、オタクとしての情熱が落ち着いた今、出来ることはなんだろう、と思った時、とりあえずは「懐の準備と健康に生きること」だと思った。オタクやるのに人生やらなきゃいけないのは誠に遺憾ではあるが、「恋と推しには落ちるもの」だ。いつ何時その時が来てもいいようにすることは、この先どうなるにしたって無駄ではないと思う。

 

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ほら、突然16万円が必要になるかもしれないし…